新潟大学脳研究所 脳神経外科教室

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教室のご紹介 -教室からのご紹介・スタッフなど-

新潟大学脳研究所脳神経外科学教室のあゆみ

新潟医科大学における脳手術の事始め

現在と同じ旭町地区に官立新潟医学専門学校が開校したのは1910年(明治43年)のことで、ここに新潟大学医学部の歴史が幕を開けます。1922年(大正11年)には医科大学へと昇格し、この年の4月、新潟大学脳神経外科教室の創設者である中田瑞穂先生が東京帝国大学医学部近藤外科から外科助教授として赴任されました。

外科の中でもいち早く脳分野に興味を持たれた中田先生は、1925年(大正14年)2月から1927年(昭和2年)5月まで在外研究員としてヨーロッパの脳外科を見学されておりますが、当時のヨーロッパの脳手術は単に一流の外科医が脳の手術も行うというもので手術成績も芳しくなく、その期待に沿うものではありませんでした。帰途アメリカへ立ち寄りボストンにてHarvey Cushing先生、ボルチモアでWalter Dandy先生の手術を見られ、「ここに脳外科あり!」と喝破されたとのことです。この時にこの高名な両先生の手術姿のスケッチを残されています。

先生は帰国後に外科学教授に就任され、間もなく新潟の地で脳の手術を開始しました。1928年(昭和3年)には論文「頭蓋及び脳手術の止血法に就いて」を発表、1932年(昭和7年)には脳腫瘍(髄膜腫)の剔出にも成功しておりますが、再び思い立たれ1935年(昭和10年)に再度渡米しCushing先生やDandy先生と再会、2年間にわたって脳神経外科手術を中心に見学されました。彼らの手術は電気凝固メスで根気よく止血しながら進むため、非常に時間がかかるものであったようですが、先生は手持ち電燈で術野を照らす役をかってでられ熱心に見学されました。そして先生が持ち帰られたこのCushingらの手法こそ、現在も私たちが受け継いでいる新潟大学脳神経外科の手術方式の源流となっているのです。

以後、新潟における脳の手術は本格化し、脳腫瘍手術、癲癇の手術、脊髄空洞症の手術などが盛んに行われました。第二次世界大戦の勃発後は多くの医局員が戦地に赴きましたが、この間も手術室の灯りが消えることはなく、教室には戦時中にも行われていた脳手術の図譜が今も多数残されています。

日本脳神経外科の産声と脳神経外科専門講座の誕生

戦後、中田先生は脳手術(1947年、南山堂)と脳腫瘍(1949年、南山堂)を上梓。1948年(昭和23年)には中田教授が会長をされた第47回日本外科学会総会が新潟市で行われ、その会の直後に日本脳・神経外科研究会の結成が決定し、記念すべき第1回日本脳・神経外科研究会が続いて新潟で開催されています。

1953年(昭和28年)、当科は日本で初めての脳神経外科専門の講座として外科学教室より独立し、第二外科学講座として中田先生が専任教授となりました(つまり初代脳神経外科教授となります)。この前後で脳手術はさらに発展し、1952年(昭和27年)には本邦で初めて松果体部腫瘍(奇形腫)の完全剔出に成功し、精神障害に対する脳手術の研究も進み、1955年(昭和30年)にはやはり本邦第一例目の大脳半球剔除術を成功させております。

新潟大学脳研究所、脳神経外科学教室の沿革

1956年(昭和31年)の中田教授の退官とともに、中田先生の構想を反映し神経生理・神経病理・神経化学の3つの研究室を有した脳研究室が誕生しました。翌1957年(昭和32年)には脳外科研究施設と名を変え、文部省に正式に認可されました。1962年(昭和37年)にはこの研究施設内に脳神経外科学部門ができ、翌1963年(昭和38年)に新潟大学医学部附属病院に診療科としての脳神経外科が開設されています。

1956年(昭和31年)に中田先生の後を引き継がれ第2代脳神経外科教授に就任された植木幸明先生は、大脳半球剔除術の臨床研究を引き続き精力的に推進され、また教室のテーマであった脳浮腫の研究においても高張尿素液の脳圧下降に関する研究などの成果を上げられました。1971年(昭和46年)にはいち早く手術用顕微鏡を導入されmicrosurgery時代の到来となりました。植木教授は教室員の教育にも力を注がれ、当教室の同門から東京慈恵会医科大学、日本医科大学、山形大学の脳神経外科教授が誕生しております。一方、「交通戦争」が大きな社会問題となっていったこの時代、交通事故による重症頭部外傷患者の著しい増加により近県の基幹病院から脳神経外科医の要請が教室に相次ぎました。これに応えて1963年(昭和38年)にまず富山県立中央病院に脳外科を開設、その後も山形県立中央病院(昭和39年)、竹田総合病院(昭和39年)、秋田赤十字病院(昭和42年)、長岡赤十字病院(昭和42年)、長野赤十字病院(昭和45年)といった東北・北信越地方の中心的病院の脳神経外科の開設に当教室員をもって当たり、これらの病院は今も各地域の脳神経外科基幹施設として大きな信頼を寄せられています。

伝統の継承と教室のこれから

1980年(昭和55年)には第3代脳神経外科教授に田中隆一先生が就任しました。田中先生は悪性脳腫瘍の治療を教室のテーマと定め、手術のみならず種々の補助療法の研究を推進させました。中でも悪性神経膠腫に対する温熱治療や免疫療法は、その独特な方法論からも世界から注目を浴びました。また血管障害における血管内治療の有効性にも早くから着目し、離脱式バルーンや銅ワイヤーによる動脈瘤の治療を国内では他に先駆けて導入、実践し、当教室はその後日本全国に広まることとなった脳血管内治療のパイオニアのひとつとして活躍して参りました。教室員も増え関連施設は充実してゆき、同門から川崎医科大学脳神経外科教授も輩出いたしております。

そして2006年(平成18年)、第4代脳神経外科教授として藤井幸彦先生が就任しました。80年以上に渡って積み上げられて来た経験に最新の取り組みを融合させながら、新潟大学脳神経外科学教室の歴史に新たなページを刻むべく、またこれまでを築いて下さった偉大な先人の歴史に恥じることのないよう、教室員一同で日々の臨床・研究に挑戦し続けております。

参考文献
  • 「中田先生のご逝去をいたむ」植木幸明先生 神経外科 1976
  • 「脳神経外科学教室小史」土田 正 新潟大学医学部学士会会報 1980
  • 「中田瑞穂」植木幸明 Clinical Neuroscience 1984
  • 「日本脳神経外科学会のあゆみ ―創設期の沿革―」佐野圭司
    日本脳神経外科学会60年のあゆみ 2008
  • 「優れた術者を目指す若手医師諸君へ」石井鐐二
    新潟大学脳研究所脳神経外科学教室同窓会誌 2009

新潟大学脳研究所脳神経外科学教室と日本脳神経外科のあゆみ

年代 当教室の歴史 日本脳神経外科の歴史
1948年(S23) 5月3日、新潟医科大学講堂にて第1回日本脳・神経外科研究会(現脳神経外科学会総会)を開催(会長は名古屋大学齋藤真教授)
1951年(S26) 10月6・7日 第7回日本脳・神経外科研究会開催(中田瑞穂教授会長) 日本脳・神経研究会を学会に改称
東京大学病院に診療科として初の脳神経外科開設
1953年(S28) 第二外科学教室として本邦初の脳神経外科専門講座の設置
初代教授に中田瑞穂教授が就任
1955年(S30) 本邦第一例目の大脳半球剔除術
1956年(S31) 中田瑞穂教授の退官、二代目教授として植木幸明教授就任
新潟大学脳研究室の誕生
1957年(S32) 脳研究室を医学部附属脳外科研究施設として認可
初代施設長に中田瑞穂先生が就任
1961年(S36) 6月1~3日、第20回日本脳・神経外科学会開催(植木幸明教授会長)
1962年(S37) 脳外科研究施設内に脳神経外科学部門の設置(第二外科学教室をそのまま移転)
植木幸明教授が継続して教授就任
1963年(S38) 医学部附属病院の診療科として脳神経外科を開設 慶応義塾大学、京都大学など、相次いで脳神経外科学講座を開設
1965年(S40) 医療法第70条に正式に脳神経外科の診療科名追加
1967年(S42) 日本脳神経外科学会認定医制度の発足
1967年(S42) 脳外科研究施設を現在の新潟大学脳研究所へと昇格当教室も研究所内に継続して設置
1970年(S45) 日本初の顕微鏡手術
1971年(S46) 手術顕微鏡の導入
1980年(S55) 植木幸明教授の退官、三代目教授として田中隆一教授就任
2006年(H18) 田中隆一教授の退官、四代目教授として藤井幸彦教授就任