中田瑞穂先生
中田瑞穂先生(1893-1975)は、私たちの教室の創始者であるだけでなく、日本の脳神経外科の歴史の礎を築いた偉大な脳神経外科医です。
国内での脳手術を手探りで始められ、欧米での2回にわたる長期遊学で見識を深め、現在の日本における脳神経外科体系の基礎を一代で築き上げておられます。その背景には強い信念とたゆまぬ努力があり、そのお人柄は何より謙虚で責任感が強く、門弟には厳しくも愛情をもって接しておられたことが、現存しているあらゆる資料から読み取ることができます。
ここでは新潟大学脳研究所脳神経外科学教室に保管されている中田先生に関する膨大な資料のごく一部ですが、みなさんにお見せしたいと思います。教室のあゆみと合わせてご照覧下さい。
医科大運動会
新潟大学医学部では今も続いている医科大運動会の時の中田瑞穂先生の写真(昭和23年5月29日、当時55歳)です。
この年の5月3日に新潟で第1回日本脳・神経外科研究会(現脳神経外科学会総会)が行われた直後のスナップということになります。研究室での厳しい表情の写真が多い中、屈託のない笑顔を拝見することができます。
Cushing先生とWalter Dandy先生
最初のヨーロッパへの外科遊学後、アメリカへ立ち寄りHarvey Cushing先生とWalter
Dandy先生の脳手術に感銘を受けられ描かれた両先生のスケッチ(左:Cushing先生、右:Dandy先生)です。1927年4月とされています。
Cushing先生の手術は地味で非常に時間のかかるものであり、見学者は次々といなくなる中、中田先生は最後のひとりになっても熱心に見学され、いささか気難しいCushing先生も「肩につかまってもよいからよく見なさい」と言ってくれたそうです。
日記
中田先生が残された膨大な数の日記が当教室に保管されています。
このような大学ノートが何十冊もあり、私生活から手術見学まで様々な内容が綴られています。
これは1935年からのアメリカ周遊時のノートからの抜粋です。表紙(左上)は擦り切れておりますが「1936、第二世界週遊記、巻の二」とあります。中には術衣から切開した皮膚の止血法、開頭道具のスケッチとその説明などのこと細かな記載(右上)があり、また「失敗例 脳腫瘍」と題し、Dandy先生の手術失敗例もまとめて記載されています(左下)。出血が止まらずに慌てるDandy先生の描写もありますが、「もう少し開頭を広げてSinusを見てこれを止めるなど何とかできそうなもの」など厳しい眼で意見も述べられています。
9ページに渡るPineal tumor
松果体腫瘍と赤字で銘打たれた箇所(右下)には、皮膚切開から開頭、摘出、閉頭まで詳細に記録されており、本邦初の松果体腫瘍完全摘出を完遂される16年前に既に高い関心を示されていたことが分かります。
手術図譜
中田先生の鉛筆画による手術図譜です。
厚い日本紙の蛇腹式の2冊のアルバムに計68図が丁寧に貼ってあり、表紙に「脳腫瘍手術図譜」と書いてあります。大半が昭和16年から19年の間に描かれたものです。
昭和52年に植木幸明第二代教授が日本臨床社の協力のもと小冊子にしており、後記には「手術のとき、いつも板に固定された紙と鉛筆が用意されてあり、随時それにスケッチされていた。手術が終わると教授室へ持って帰られて密画を画かれたのである。一つ一つの病態を緻密に正確に把握し、そして手術への反省を求めておられたのだと思う。その厳しさと心がにじみ出ていて、そして何かを語りかけているような気がする。」と記しておられます。植木教授が出版のお願いにあがった際には「そんなものを今出したところで何の足しにもならんよ」と断られ、日を経て再度のお願いをし、ようやく「君に任せる」と言っていただいたそうです。
著書「脳手術」
昭和22年に出版された著書「脳手術」です。
欧米見聞から「脳手術は単に外科の練達が手術をするというものではない」という確信に至り、脳手術の方法、注意点、心構えまで232ページに渡り記載されております。
2冊(右上)のうち右が昭和22年の発行版、左は昭和17年に作成されたゲラ版です。ゲラ版の1ページ目(左)には、「挿図の原図は他に保管なし…再刻の際これを利用すること」とあり、下に「本書は漸く製本成り、価格審査のため提出しありし唯一のものにして、他はすべて東都の空襲時(昭和20年4月)灰燼に帰し…」とその理由が記されています。実際、発行版の挿図は解像度が極めて悪く、この唯一のゲラ版でのみ綺麗な挿図を見ることができます。それでも当時の脳手術のバイブルとなった本書の製本版の「自序」においては最後に「そうまでしても出版する価値のある著述であったか…実は吾ながら少々疑問である。」と、先生の謙虚なお人柄がしのばれます。
名著「脳腫瘍」
昭和24年発刊の名著「脳腫瘍」です。
330点の写真版の挿図を含め456ページにわたり脳腫瘍に関する診断と治療法について詳述されています。その序文に先生の脳腫瘍に対する強い信念を示され、「脳腫瘍患者がいろいろの医師を訪ね迷い、やがて何もされぬうちに空しく生命を失うというのは、もはや日本位になってしまった」とし、脳腫瘍の確実な診断で神経学が進歩し、そして診断に基づいた確実な摘出が可能であることを知らしめるためにも「私は吾国にも新しい脳外科の実際にたづさわるものが筆を執った日本語で書かれた脳腫瘍の書物が先づ必要であると思う」と本書を著した動機を述べておられます。
昭和25年の日本医事新報に京都大学荒木千里教授の書評があり、「著者の意図が、自己の経験した症例を深く検討しつつ、まとめて報告したいことにあるのは明らか」「それでなくては、余程暇な人間でない限り、並々ならぬ熱意をもって、か程の大著を企てる筈はない」と言葉を尽くしておられます。
第1回日本脳・神経外科研究会のプログラム
昭和23年5月3日に新潟大学医科大学講堂にて行われた第1回日本脳・神経外科研究会のプログラムです。
全26演題で、中田先生のご演題は第7題目の「前頭葉切除術乃至前頭葉白質切離術の効果の限界に就て」。(「脳及神経」第1号、昭和23年。に掲載)
日本脳神経外科創世記の先生方と随筆集「外科今昔」
新潟大学脳研究室開設時、昭和31年5月の写真です。
日本脳神経外科創世記の先生方のお姿が見られます(右下)。京都大学脳神経外科の荒木千里初代教授、当教室の植木幸明第二代教授、現東京大学名誉教授の佐野圭司先生のお姿もあります。
左下は昭和33年に出版された「外科今昔」です。外科手術とは? 良い外科医とは? など、中田先生の思いが存分に綴られた随筆集です。現在の外科医も襟を正したくなる、真に臨床に必要なエッセンスが詰めこまれています。1999年に装い新たに再販もされています。
ブレインカッティング
見るものを魅了するこの有名な一枚は、昭和46年6月21日の撮影です。
亡くなった患者さんの脳解剖の検討(ブレインカッティング)は今も脳研究所で続いています。中央が中田先生、その右隣で覗き込んでおられるのが植木教授、左で標本を説明しているのが、前神経病理学教室教授で現新潟大学名誉教授の生田房弘先生です。症例はこの14年前に中田先生が自ら大脳半球摘除術を執刀された症例だそうです。
中田瑞穂先生とご自宅
最晩年の中田瑞穂先生と新潟市西大畑のご自宅(借家)の写真です。
肖像は昭和49年6月23日の句会のお姿で、この翌年の8月18日にご自宅にてお亡くなりになられました。
中田先生は東京帝国大学在学中から俳句にも通じ、高浜虚子とも親交を持ち、「ホトトギス派」の同人として山口誓子らとともに「東大俳句会」で活躍されたことで有名です。新潟に赴任されてからも、脳外科研究で多忙な中のわずかな時間で句集も発行されておられます。代表的な句としては「刻々と手術は進む深雪かな」「学問の静かに雪の降るは好き」などがあります。
私たちの同門で 川崎医科大学の前教授でおられました石井鐐二先生の興味深いエッセイもご参照下さい。